2016年7月2日土曜日

健康(12)– 肺に腫瘍・手術後

健康(12)– 肺に腫瘍・手術後


検査入院 禁煙 癌病棟 の続き

 癌では無かったですよという女医先生の声で麻酔から覚めた。
 
 体中に何か付けられていて、目の前は計測器だらけ。隣のおじさんは肺を半分取ったのにその日のうちに夕食を食べていた。私は肺の一部しかとっていないのに食事が食べられない。食べたいという気が出ないほどくたばっている。数日先に肺活量の検査があった。隣のおじさんは肺が半分なのに私よりだいぶ肺活量がある。癌ではなかったが、私の肺はかなり悪かったようだ。
 
 次の日から食事がとれた。背中から管がでている。背中には液体が入ったものを背負わされて普通に歩かされた。背中の液体の中は自分の吐く息が泡となってでていたように思う。今から思えば背負わされたものは何であったのか、何の機能を果たしていたのか、何故何も聞かなかったのかと不思議である。手術後の痛みに耐えることや普通ならなんでもない日常生活を送るのに一所懸命であり余裕が無かったのだろうと今推察する。
 
 家族は他の人と比べて直ぐに帰ってきたので、手遅れだったかと一瞬思ったそうであるが、腫瘍が良性であったと知ると私に対する不満が一気に噴き出した。これで家族が受けているストレスがわかった。
   
 この話を隣の患者さんの母娘にすると二人が同時に急に堰を切ったように、自分たちは如何にストレスを受けているか、それが本人にわかっているのかと言うようなことを、大きな声で私に一気に話してきたので吃驚した。
   
 この病院では注射タイムというのがあって、数人の看護婦さんに行列を作って並んで注射をうってもらう。どの看護婦さんにあたるかは事前にわからない。ここでも注射の下手な看護婦がいて、みんなその看護婦さんにあたることを嫌がっていた。注射のあと、あの看護婦さんにあたらなくてよかったとか、今日は運が悪かったとかが話題になっていた。
   
 20年前の入院は長期にわたったこともあり、注射の下手な看護婦さんには恐怖を感じ、悪人に見えた。想像するに注射の下手な看護婦は自分が下手のことに気がついていないのではないか。看護婦さんを怒らしてしっぺ返しを想像するので直接言うことは憚られる。間接的にいうべきだったかもしれない。
 
 私の腫瘍はいろいろ調べたが、わからなかったとのこと。

2016年7月1日金曜日

健康(11)– 肺に腫瘍・癌病棟

健康(11)– 肺に腫瘍・癌病棟


検査入院 禁煙 の続き


 約束の1ヶ月後病院へ行った。禁煙は約束の半分しかできていない。特に確認されなかったので、何も言っていない。すぐに入院することになった。入院したところは、6人の大部屋であり、直接的に間接的に聞いて、周りの人は全員癌であることがわかった。みんな大部屋にいることを喜んでいた。もし個室であればふさぎ込むであろうが、大部屋では、お互いに情報交換もできる。同じ悩みを話していれば、気は紛れるし、元気づけられもする。でもこの部屋にいる人は手術で助かる可能性を持っている人たちである。3階には手術できない癌患者ばかりで雰囲気が暗いという。周りの人は入院後1~2日後手術が行われるのに私は2週間近く待たされた。検査で禁煙期間がわかるのかな? 喘息持ちの手術は危険で私の体調を見計らっていたようでもあった。

   肺癌手術でも手術が終われば普通に食事をし、そして次の日からは歩かされる。しかし、体には管が入ったままで、背中には器具を背負わされている。 

 手術の日が近づき毎日種々の検査が行われたが、垣間見える検査結果から私は癌では無いと思った。手術の前日、麻酔医の方がこられて私の体を触診された。私の体は麻酔医泣かせで麻酔注射を打つ場所がわかりにくいとのことであった。麻酔は背中に注射される。以前の盲腸の時も背中に注射された。あの時、私には麻酔があまり効いていなかった。多分注射が少しはずれたのだろう。

   手術の前日、担当医から妻と娘同席で手術内容について話があった。手術で真ん中の太い気管が傷つくと即死になりますが、そんなことが起きないように手術します。と切り出された。おいおいそこから始まるのか。腫瘍がある左の肺は上下二つに分かれています。ちなみに右肺は三つに分かれています。腫瘍は左上の肺の下方にあります。腫瘍部分を切リ取って直ぐに癌かどうか検査します。腫瘍が癌で下の肺にまで達していたら、左の肺全部を摘出します。そうでなかったら肺の上部を取ります。喘息を持っているので喘息の発作が起きたら危険です。腫瘍が良性であっても取り除きます。
 
 私の直前に手術された方は、手術室からすぐ帰ってこられた。聞けば既に手遅れだったとのこと。動揺しておられるふうもなく、いつものように淡々と何事もなかったように雑談されたのには驚かされた。

 しばらくして、私の番になった。手術台に乗せられて大部屋を出て行くときの自分を覚えている。20年前の手術ではとにかく痛くて早く切ってくれとの一心だった。痛くて朦朧として手術台に乗せられたことも記憶にない。今回はどこにも異常が感じられない。2週間近くの病院で日頃の疲れはとれている。禁煙も1ヶ月になる。喘息の気配もない。体はぴんぴんしている。それだけに不安が忍び寄る。危険かもしれないところに敢えて突き進む高揚感のようなものもあった。手術室に着くと直ぐに麻酔を打たれて数を数得るように言われた。五つも数えないうちに意識をなくした。

2016年6月30日木曜日

健康(10)– 肺に腫瘍・ついに禁煙

健康(10)– 肺に腫瘍・ついに禁煙


検査入院 の続き


 禁煙して1ヶ月後に入院するようにいわれていた。 煙草をやめないと前へ進まないとわかっていても簡単にやめられない。 病院から禁煙をきつくいわれてからも2週間吸い続けた。 その頃、用事があって遠くにある実家に帰った。 そこで喘息の発作が起きた。発作はしばらく起きていなかったので、よく効く薬を持っていなかった。 近くの病院に行ったが、発作はおさまらない。 この時、苦しい、煙草もおいしくない、もう煙草をやめようと思った。

 今まで何度も煙草をやめようと思って頭の中の「喫煙スイッチ」をオフにしたが、オフにならない。 オフにしたつもりが、すぐにオンになっている。30年以上この状態が続いていた。 喘息の発作でどんなに苦しんでいても、煙草の誘惑に負け続けてきた。

 ところがこの時は頭の中のスイッチがオフになった。 そしてオフにロックされた。意を決して、禁煙をしたのではない。 決心ならいままで何度もしてきた。 いままで何度強く押しても、その都度強力な反発力でオフにならなかった。 そのスイッチが、そんなに強く押していないのに何の抵抗もなく、すっといとも簡単にスイッチがはいってしまった。 このスイッチはオンにならない。そう確信できた。

  病院の指示通り1ヶ月禁煙し、手術後悪い結果がでなければ、また喫煙することもありえた。 何故、禁煙できたのか。

 癌かもしれないし、煙草もうまいとは感じなくなっていた。 病院の先生が、何度も喫煙しているとどんな治療も効かないと繰り返したことも大きかったと思う。 癌であろうと無かろうと煙草を吸い続けていたら余命は長くないと感じていたこともある。 何が決定打であったかよくわからない。

 いろんな不安や思いが重なって喫煙スイッチが確実にオフになったのであろう。いまでも自分の意志で禁煙できたという感じはない。
   

2016年6月29日水曜日

健康(9)– 肺に腫瘍・検査入院

健康(9)– 肺に腫瘍・検査入院


 ある日会社の診療所から電話がかかってきた。肺で引っかかったのではないかと予想しながら診療所にいく。診療所の先生から手のひら大の写真を見せられた。案の定、肺の写真で素人目にも腫瘍が写っている。小さい写真なのに腫瘍はやけに大きい。頭の中で写真を実物大まで拡大してみる。握り拳ほどの大きさになる。頭がガクンと落ちた。先生が肩を叩いてまだ決まったわけではないと言う。いくつかの病院を示してどこにするかと言われる。大きな病院を選んだ。紹介状をもらって診療室をでた自分を今でも覚えている。

 いろんな検査が受けた。覚えているのをあげると、やたら大きな風船による肺活量測定、脳のMRI、CTスキャン、PET。その他の装置名は覚えていないが、脳と骨の検査がやたら多かった。ずっと後で肺癌は脳と骨に散りやすいと聞いた。CTスキャンの画像を見ることができた。卵大ぐらいの腫瘍と思っていたが、現実は人差し指の先ほどであった。当時癌検診の最先端装置であるPETは別の病院で受けた。当時PETは、まだ日本には2台しかなく、その病院はPETを導入したおかげで苦しかった経営が一気に回復したとのことであった。
 
 何日にもわたり、いろんな検査をされたあと、検査入院をして下さいと言われた。えっ検査だけで入院? 入院手続きを済ますと、今から検査しますと言って車椅子に乗せられた。元気なのに何故? それ程の検査ですと言われた。肺を内視鏡で見るのだという。
 口から内視鏡を入れられた。経験したことのない、表現しようのない、不思議な苦しみが襲ってくる。はねられる、はねられるという先生の言葉が聞こえてくる。内視鏡が腫瘍にあたってどうもうまく見ることができないようであった。終わると何故か自分がぐったりしている。確かに車椅子が要る。その日は病院で一泊した。

 外科部長から一連の検査結果が伝えられた。いろいろ調べたが、腫瘍が悪性か良性かどうかはわからなかった。手術で腫瘍を切って、即時に検査する。その後継続する手術は検査結果に応じて行う。
 「先生、わからないのであれば、手術しなくてもよいのでは?」
 「癌だったらどうする」と声を荒げられた。

 手術に先駆けて煙草をやめること。煙草をやめないとどんな治療をしても無意味である。 まずは煙草をやめること。1ヶ月たってから来院するようにと言われた。また、私は喘息を持っているので、もし手術中に喘息の発作が起きると非常に危険なので体調を見ながら手術を行うとのことであった。

2016年6月27日月曜日

健康(8)– 喘息

健康(8)– 喘息


 肝臓を悪くして食事に気をつけるようにしていたが、γ-GTPもGPTも正常値に戻ると食事に気をつけなくなった。鼻に常時おできができるほど、体調が悪くなった。でも、結婚すると、体質が改善されたかのように体調はよくなった。

 「今日も元気だ、煙草がうまい」そんなCMどおりの気分で煙草を吸っていた。そして、煙草の本数は徐々に増えていった。会社の上司から、「のべつ幕無く煙草を吸う輩がいる」とみんなの前で暗に私を指して叱られてしまうほど煙草を吸うようになっていた。

 43~4才のころ小学生の息子が友達を連れてきてお父さんマラソンをしようという。いいよ、と言って走り始めたが、直ぐに苦しくなってしまい、すぐに子供達は遠くに行ってしまった。少ししか走っていないのに、呼吸困難になり、家に帰り寝込んでしまった。でもこの時は特に何かの症状がでるというわけではなかった

 だんだん咳をするようになった。更に咳こみがすすみ、時々、咳が止まらなくなった。喘息に違いない。発作が頻発するようなり、団地内の病院に通ったが、少しもよくならない。女房が喘息に詳しい先生がいる病院を聞き出してくれた。そこに行くと応急措置とアレルギーの検査が行われた。のちのち看護婦さんからあの時の私の症状はひどかったと何度も言われた。

 一週間後にでた検査結果では、杉と稲科の花粉アレルギー反応が突出しており、アレルギー起因の喘息だと診断された。

 この病院でくれた喘息発作時のスプレーはよく効いた。喘息の薬はよく効くようになっているが、心拍数が異常にあがるなど心臓によくないと誰かが言っていたが、この時渡されたスプレーは2回強く吸うだけで、心臓への負担は全く感じられなく、嘘のように喘息が治まった。

 煙草は吸い続けた。咳き込みそうになるとシュッシュッとスプレーを二吹き。何事もなかったように、すっと治まる。又、煙草を吸う。
 こういった日々をしばらく繰り返していたが、スプレーが効かなくなってきた。病院にいくと今度はお尻に注射を打ってくれた。これがまたよく効いた。病院を出ると一服。 

 でも注射も効かなくなった。看護婦さんにもう一本とおねだり。二本売ってもらうと効いた。病院を出ると一服。ある日、看護婦さんに二本目売ってもらおうとすると看護婦さんの目がつりあがった。強いお薬なのでこれ以上打てません。

 発作時のスプレー以外に根本治療薬を病院から渡されていたが、効く気配がない。 喘息発作時のスプレーも注射ももう効かない。何とかしなければと思って、ぜいぜい言いながら散歩をはじめた。自宅から10分も歩けば標高300mの山の麓にたどり着く。土曜日と日曜日はその山に登るようになった。
 
 喘息を治そうと無理をして歩く。肺が弱っているだけではなかった。足腰もかなり弱っていることがわかった。散歩の途中で煙草は吸わないことにした。でも自宅に帰ってから吸っていた。
 
 喘息を治すぞと、がむしゃらに歩いた。4時間5時間も歩くようになった。そのときわかったことが足腰は長時間歩くと疲れるが肺は調子がよくなる。とはいっても「ぜいぜい」はとれない。
 
 女房が買ってきた早起きの効果の本を読んだ。早起きで仕事や勉強が効率的になると言う本だったが、早朝散歩も勧めていた。土日の散歩のみでは足りないと感じていたので、早く起きて歩くことにした。 

 朝の散歩も土日の山歩きも気持ちがよい。とにかく歩いた。足腰が強くなり、肺も少しよくなった。そして、スプレーも効く。それでも肺の調子は一進一退で特に季節の変わり目に喘息がでた。いつ喘息でてもいいようにスプレーは肌身離さず持っていた。 

 このような状態が5~6年続いた。会社の診療所から電話があって、来てくれと言う。

2016年6月25日土曜日

健康(7)– 盲腸周囲膿瘍-退院後

健康(7)– 盲腸周囲膿瘍-退院後


前々回 排尿痛 および 前回 盲腸周囲膿瘍の続き

 1979年2月退院。退院しても病気が治った気がしない。長い間、病名すらわからず、その間に体に膿がどんどん溜まっていったせいか、心身をすり減らしていた。
 振り返ってみれば、体調の悪さを感じたのは、夏前、会社を休職して、誤診による病院通いをしたのは秋。救急車で入院したのは年末。会社に復帰したのが、2月末。

 会社に復帰してしばらくは、えっ、今10月でなく2月と思うことが何度もあった。アパートに帰って、テレビを見ていても、全然頭に入らない。水戸黄門ですら見終わってどんな内容だったかも思い出せなかった。

 歩けなくなるほど痛みを感じてから手術まで6~7ヶ月、退院後の2~3ヶ月、合わせて9ヶ月以上、この時ほど、周りが見えてなかったときはない。退院後、危機は脱したはずなのに生きている心地はしない。もうだめだという意識が抜けない。

 長期間の治療で肝臓がやられており、γ-GPTとGTPの値が高かった。肝臓は悪くなっても自覚症状はない。会社の診療所の先生は、治すには食事療法しかないという。外食であったが、極力日本食を食べることにした。あとから振り返ってみれば体は少しずつだけれど、回復していた。

 当時は意識していなかったが、心の回復は随分遅れた。心が壊れていると、いままで全く何も感じていなかったものに対しても、恐怖心が湧き、なかなか消えない。特にテレビで救急車の音を聞くのは耐えきれなかった。病院の場面もみることができなかった。ずっと後にこの話を人にするとPTSDだという。いわゆるトラウマである。そうだったかもしれない。

 アパートに女性が人参茶を売りにきた。非常に暑い日だった。クーラーはない。こちらはパンツ一丁なのに女性が上がり込んで、人参茶の効用を熱心に説明した。人参茶は酸化ゲルマニウムを多量に含んでおり、酸化ゲルマニウム中の酸素が体質を根本的に改善するという。2ダース注文した。体質改善に2ダースは必要と言われたと思う。次の日、こんなに多量に買う必要はないと思い直して、1ダースにした。それでも1本約5万円計およそ60万円。

 この人参茶は体にどれだけよかったかどうかわからない。しかし、心の支えになった。これを飲んでいると何故か少し安心した。2年半はほぼ毎日確実に小さな匙に毎2杯ずつ飲み続けた。3年目の終わり頃はだんだん飲まなくなった。そして最後の一本には黴が生えたので捨てた。この時、もう大丈夫と思った。心が回復した瞬間だった。

 私に人参茶を売りつけたのは誰だったのだろう。私が人参茶を買って数年たって、統一教会が高価な人参茶と壺を売っているという情報がメディアを賑わした。そういえば、人参茶を買って一ヶ月もたたないころ、今度は男性が壺を売りに来た。壺が体に効くはずもないし、霊が壺に宿るなんて全く信じないので断った。私は絶対買うと確信していたのだが、と販売員は見込み違いを残念がった。

 統一教会は当時いろいろ話題になったが、事件性があるというわけではなかった。私が飲んだ人参茶はどうだったのだろうか。これを書きながら気になりネットで調べてみた。統一教会が扱う商品のなかではまともであるとのこと。人参茶としては、統一教会が売るので高いが、という注釈がついているものの一級品であるとのこと。そうなると最後の一本はもったいなかった。
 
 入院しているのに会社からは早く出社しろと催促されていた。先生が自宅療養期間を指示してくれていたので、その通りにした。会社仕事はどこも楽なところはない。長時間労働でストレスが溜まる。なんらかの嗜好品に走る。私の場合、コーヒーと煙草であった。あれだけ大変な思いをしたのに、退院後1ヶ月もしないうちから煙草を吸い始めた。入院しているとき、これで煙草がやめられると思っていたのに、又、吸い始めてしまった。何故この時やめなかったかと後で悔いることになる。

 せっかく大病を患ったのに、私が体によいことをしたのは、人参茶を買って3年近く飲み続けたぐらいである。せめて禁煙すべきであった。禁煙しておけば約10年後に煩った病気にならずにすんだ。又、20年後に受けた手術もいらなかった、 

 次は40代に煩った病気について述べる。

2016年6月18日土曜日

健康(6)– 盲腸周囲膿瘍

健康(6)– 盲腸周囲膿瘍

排尿痛の続き

 手術が終わっても生きのびた感はなかった。病名は、盲腸周囲膿瘍で、盲腸があった場所に膿がたまる病気であった。ひどい臭いがして、完全に取り除くよう大きく切ったとのこと。これらは母から間接的に聞いた。手術前後も手術した先生の顔も全く覚えていない。
 気がつけば、おちんちんに管がついている。尿意があるようでもあり、ないようでもある。いつ放尿したかもわからない。でも放尿はしている。気色悪さ感が消えない。これはつらかった。

 手術の次の日から毎日、院長先生が太くて長い針金のようなものを持ってきて、手術した箇所につっこみかき回す。こうすると早く直るとのことであった。
  針金は1週間近く、尿管は約2週間近く続いた。長時間の点滴も毎日ある。針金の痛さは短時間であるが、尿管の気持ち悪さは途絶えることがない。大便は寝たままで他人の力を借りなければならない。これもたまらなくいやであった。

 尿管が抜かれて、やっと寝たきりから解放された。立ち上がるとふらふらすると言われていたが、自分は、普通に歩けると感じた。実際に立ち上がると平衡感覚がなくなっているのに吃驚した。点滴は更に続いた。点滴の針がはいりにくくなって、今度は点滴が苦痛になってきた。看護婦さんの上手下手で点滴のつらさがかなり違う。下手な看護婦さんがくるとおおげさでなく、恐怖に震えた。

 隣は50歳ぐらいの胃潰瘍の男性で、さかんに先生が手術を勧めるが断り続けていた。私は早く切ってくれと切望したのに、この人は拒否している。誰だって痛みがなければ、手術は躊躇するだろう。私の場合は、手術の怖さより、一刻も早く痛さから解放されたかった。
 
 隣の男性は最後は、手術を選択された。数日後、先生がその方に術後の血液検査に問題ありませんでしたよと言われたとき、何を言われているのかわからないようで、かなりたって、あっ、そうかと言われた。輸血は肝炎発症の可能性があり、肝炎の検査で問題がなかったと告げられたのだ。もし、肝炎の危険性を意識されていたら手術はもっと遅れたであろう。

  隣で何週間も一緒だったのに、記憶はこのくらいでほとんどない。今から思えば、体力は消耗しきっており、ぼーっとしている状況が続いていたようだ。

 次に隣に来られたのは、おばあさんで90歳前後のように見えた。「先生、私死ぬのですか」と周りを気にすることなく、さかんに問いかけられる。ネガティブオーラが取り囲んでいるような感じでこちらまで、暗くなってしまう。

 おとなしかった私がいろいろ愚痴を言い始めたようで、このとき、家族はもう大丈夫だと思ったようだ。

 点滴はつらい。隣のばあさんもたまらない。先生に退院をお願いしたら、許された。

 盲腸周囲膿瘍は盲腸を患った人のうち5%ぐらいがかかると聞いた。習慣になって何度も手術を繰り返えす人がいるとも聞いたが、私の場合、幸いなことに30年以上たっても再発していない。

 退院しても、完治には長い時間がかかった。

2015年11月22日日曜日

健康(5)– 排尿痛

健康(5)– 排尿痛


 今後の健康の参考にと思って、過去の病気を振り返っている。20代はヘビースモーカー、生活は不規則、食事も外食、運動もしなかった。腎臓結石や虫垂炎を患った。

  30代に入ってから生活は少し規則正しくなった。それでもヘビースモーカーで、運動は全くしなかった。食事も外食で偏っていた。

  33才秋、何となくいままでにない体調の悪さを感じた。運動を少しはしなければと思い、少し走ってみた。さらに体調が悪くなる感じで、不気味な違和感があった。その後、小便をすると下腹部が痛くなり始めた。病院での体温測定で、確認もせずに体温計を看護婦さんに返すと「38度以上ありますよ」。えっ! 腎臓結石が疑われ、レントゲンを撮られた。腎臓結石は経験があるので、自分は腎臓結石とは思っていない。検査結果も腎臓結石ではない。

   次に疑われたのは前立腺肥大であった。先生が肛門に手を突っ込んで触診する。先生の先生もでてきて肛門に手をつっこむ。そして、前立腺肥大に間違いないという。しかし、前立腺肥大では熱はでないというのに、ずっと微熱が続いていた。前立腺肥大は通常は年寄りがなるものと聞いていたので、絶対違うと感じた。自分は原因不明の病気で苦しんでいる。不安は大きかった。

  小便をするときの痛みは日増しに強くなっていった。常時下腹部が痛くなってきて歩くのもおぼつかなくなった。一人ではとてもやっていけない。身の回りの世話をしてもらうために母にきてもらった。母にかかえられて病院巡りをした。ある病院にいったとき、自分では気がつかなかったが、盲腸の跡が膨れていた。先生が大きな注射器を持ってきて、針を差し込んだ。何もでなかった。

  数日後、救急車で病院に行った。救急車に乗る前は何も覚えていない。最初の病院はベットに空きがないとのことで断られた。救急車は次から次へ要請が入っているので私だけを相手にできない、次の病院へは乗せて行けないという。その後は記憶がとんでいる。たどりついた病院は、母子ともにどこのどんな病院かわからない。視覚的な記憶がない。覚えているのは、母経由で手術は二日後と告げられたこと。あまりに痛いので、なんでもいいから早く切って欲しいと思っていたので、かなりがっくりした。もう助からないと思った。その次の記憶は、母から先生が「切らないとわからないが、癌かも」と言っていると聞いたこと。もう駄目だと思っていたので、病名はほぼ無意味だった。手術前も手術後もほとんど覚えていない。盲腸の手術前後は覚えているのに、このときの記憶はない。

  このときの話は気が重くなる。痛さと朦朧とした意識なかで、もう駄目だと心底、観念した。

 

2015年11月15日日曜日

3D(5)結晶構造 - diamond structure ( youtube )



3D(5)結晶構造 - diamond structure

 どうする? 3次元描画に挑戦!

 3次元描画としては、映画の「トイ・ストリー」や「アナと雪の女王」のように2次元描画であるが3次元的に見えるように工夫したものがある。

 最近は本当に3次元でみれる映画が出回っている。これは右目用と左目用の絵(動画)を一つの画面に重ねて置き、色眼鏡で見分けて3次元でみるものである。

 ここで検討しているのは、右目用の絵と左目用の絵を描いておいて、見る人が目の焦点の位置を画面の奥に置くか、もしくは、手前に置くかで立体的に見えるようにしたものである。

 同じ方式で右目用と左目用の写真を撮る装置がある。この写真を並べてみると立体的にみえる。一時ヌード写真でミニ・ブームがおきたことがあるらしいが、私の記憶にはない。

 私は3次元の幾何学模様と結晶構造で3次元表示を行っている。

 ここでいう幾何学模様は幾何学のようにみえる幾何学的模様ではなく、数式をベースにした幾何学模様である。2次元の幾何学模様はアリストテレスの時代から古今東西盛んに検討されてきた。日本でも江戸時代、民間の数学マニアの一分野であった。江戸時代の数学は関孝和だけではない。庶民を巻き込み裾野は広く、全国津津浦々に証拠の絵馬が残っている。江戸時代の文化 見直すべしである。

 3次元幾何学は古代ギリシャからあったようであるが、高校で教えられることはない。非ユークリッド幾何学やリーマン幾何学として発展したようであるが、名前は知られていても専門家以外は中身を知らない。難しい話も通常は多くの解説書がでるが、この分野は見かけたことがない。私はサイン、コサインを適当に組み合わせただけで幾何学模様を描いているだけある。3次元プリンターがでたので、これからは身近になっていくかもしれない。

 結晶構造は2次元図があって、いろんな説明図があってもなかなか理解が進まない。3次元でみせられると、あっそう!と一目瞭然で理解が格段に進む。

 立体視のできるダイヤモンドの結晶構造を前回のブログで示したが、結晶構造はそれでも不十分である。回転していろんな角度から見る必要がある。

 Youtubeなら回転する結晶を、今回の立体視方法を用いて、3次元で見ることができる。
目の焦点を画面奥にして3次元に見えるように目のピントを調節して見て下さい。




 最初から少し回転させているのは、ここで使っている立体視方法は真正面が弱いからである。真正面にすると立体的に見えない。


 今回は180度横方向にしか回転していない。360度回転させ、さらに縦方向でも360度回転させたほうがよさそうである。

2015年10月18日日曜日

3D(4)結晶構造 - diamond structure

3D(4)結晶構造 - diamond structure


 教科書に書かれている結晶構造は、当然ながら2次元(平面)で書かれている。現実は3次元である結晶構造が2次元で書かれていると想像力を働かせて理解しなければならない。つまり、わかりにくい。もし、3次元でみることができれば理解しやすい。

 いままで紹介してきたように目の焦点をスクリーン上からずらすことによって3次元でみることができる。

 今回示すのはダイヤモンド構造である。ダイヤモンド以外にもSi(シリコン)やGe(ゲルマニウム)もダイヤモンド構造である。

 次図は目の焦点を画面奥にした場合、3次元でみることができる。



 次図は目の焦点を画面手前にした場合、3次元でみることができる。



 これらの図はExcelのVBAで作成した。結晶構造を3次元でみたとき、我ながら 「おう!」と感激した。いずれこのように3次元でみられる結晶構造が教科書にのる日がくる。

2015年9月27日日曜日

健康(4)– 虫垂炎 

健康(4)– 虫垂炎


 20代後半夜アルバイトをしていたら、いつもとは全く違う胸焼けを感じた。これは尋常ではない。アルバイトを早めに切り上げてアパートに帰る。今までとは違う汗がでる。これが世にいうあぶら汗か。やたらと気分が悪い。手が勝手に体中をまさぐりだした。手が右の下腹に触れた途端、ぴりぴりっときた。盲腸だ。次の朝、隣の知人に付き添ってもらって、腎臓結石でお世話になった病院へいく。「先生、盲腸です」「こら!自分で決める奴がどこにいる。何の病気か検査する。」 しばらくして先生が帰ってきた。「おまえの言うとおり盲腸だ。」

   部分麻酔の手術で、先生が切り取った盲腸をみせ、汚い盲腸だという。他の盲腸を見たことがないので汚いかどうかわからない。鮮やかな黄色い塊で、これが汚い?と思った。看護婦さん二人が手術台かつ移動車から私を寝台へドスンと落とす。痛い。あの二人の体の大きさではやむを得ないと思ったが、そっと下ろして欲しかった。しばらくして先生がやってきた。「おまえは大袈裟だ。手術中おまえほどわめいた奴はいない。麻酔が効いている。そんなに痛くないはずだ。足をあげてみろ。あがらないはずだ。」 「先生、いくらでもあがりますよ。まだあがりますよ。でも傷口が痛いのでこれ以上はあげられません。」先生は黙って立ち去っていった。

  ずっと以前に盲腸手術を経験した先輩が、麻酔注射が非常に痛かったと言っていた。私の場合、麻酔注射は少しも痛くなかった。手術前に毛を剃られる。その時、看護婦さんがちょこんとつまむので、大きくなると聞いていた。そのときが近づいても痛くて、とても大きくなる気がしなかった。サービスで大きくしないとまずかなと思ったが、看護婦さんはズボンを少しだけ下ろして上の方をわずかに剃っただけだった。

  麻酔が切れたあとは、痛くて笑えないので、笑わされると大変だとも聞いていた。これはその通りだった。

2015年5月9日土曜日

3D (3)球面上のサイン波  sin wave on a globe (3)

目の焦点を画面奥にすると立体的に見えます。

濃い目の色は、「ももはないろ」です。色コードは#e198b4です。
淡い色は、「あわべにふじ」です。色コードは#e6cde3です。

ExcelのソフトVBAを使って描きました。

このような絵をコンピュータを使って描いてみたいと思われ方もいるかもしれません。
そのような方に使った数式を以下に示します。



2015年1月18日日曜日

3D (2)球面上のサイン波 その2 sin wave on a globe 2

3D (2) 球面上のサイン波 その2 sin wave on a globe - 2



 前回、球面上のサイン波として、球の赤道付近でサイン波を示した。北極付近でサイン波は、これがサイン波かと思われるような図になる。

  前回使った式は

θ=(π/6) sin 10φ+π/2


である。今回使った式は、

θ=(π/3) sin  nφ


である。
  今回の最も大きな変更点は、前回式より +π/2を除いたことである。この+π/2は赤道を中心にしていることを示す。+π/6 とすると北緯30度を中心としたサイン波である。この+π/n を除くと北極点を中心としたサイン波となる。しかし、全くそのように見えないパターンが現れる。これはサイン波の振幅の中心が北極点 一点に集中するためである。

  北極付近で上式を少し変更するだけでいろんなパターンがでてくる。

  先ず、sin nφ の n を変更して見る。目の焦点を画面の奥に合わせると真ん中に現れるパターンが立体的に見える。

n=1,    θ=(π/3) sin  φ


n=2,    θ=(π/3) sin  2φ

n=3,    θ=(π/3) sin  3φ

n=4,    θ=(π/3) sin  4φ

n=5,    θ=(π/3) sin  5φ


  sin φ、sin 3φなどφの前の数字が奇数である場合とsin 2φ、sin 4φ等偶数である場合では花弁の数が異なる。これは奇数の場合、φ=0~180 度と φ=180~360度 で同じパターンを描くのに対して、偶数の場合は、異なるパターンを描くことによる。下図は n=2 でφ=0~180度の場合である。

  式で描画できるのは線であるが、上図のよう線が閉じたループになっている。エクセルやパワーポイントのフリーフォーム機能を使うと色塗りができる。いろんなパターンも埋め込める。色を付けて回転してみる。そして、子午線も経線ものぞいてみよう。このほうが、立体的に見えるパターンとして楽しんでもらえそうである。

2015年1月5日月曜日

3D(1) 球面上のサイン波


3D (1)球面上のサイン波


  幾何学模様(2次元)をやっていて、いつかは3次元の幾何学模様をやろうと思っていた。私のプログラム作成技術はPPTのマクロからエクセルのVBA技術へ進歩している。今ならできるということで挑戦した。プログラム作成にかなりの期間を要したが、3次元でいろんなことができるようになった。3次元表示は、複雑で多様性がある。3次元表示ではまず任意の角度で傾けて表示する必要がある。次にどう見せるかという問題もある。いろんな表現方法がある。このブログの3Dシリーズでいくつかの表現方法を紹介していきたい。

  下図は、球面上のサイン波である。
 どのような発想でサイン波を書いたのか。 球を地球儀に例えて話をする。経線は赤道に平行に走っている。この経線を2次元(X,Y)のXとし、子午線をYと考えればよいと考えた。地軸に対する傾き角度をθとすると、半径を一定にして、θを0度から180度動かして線を描くと子午線が描ける。地軸を軸として回転する角度をφとする。半径を一定にしてφを0度から360度回転すると経線が描ける。

  Y=sin X はθ=sin φ とすれば、球面上でサイン波が描けるであろう。しかし、球面にはいろんな制限がある。上図の球面上のサイン波は以下の式で描いている。

θ=(π/6) sin 10φ+π/2

  θは地軸に対する角度なので、赤道を中心にサイン波を書くために π/2 を足している。π/6 は サイン波の振幅を示しており、これにより北緯30度と南緯30度の間を上下する。10はサイン波の山もしくは谷の数を示している。

  このような球面上のパターンを見せるにはどうするか。今回のサイン波は、わかりやすので、上図だけだ充分であろうが、傾ける角度を変えた方が良い場合がある。今回はあまり意味がないが、北極側からみるパターンとして90度傾けてみた。

  立体視、もしくは、実体視、もしくは、マジックアイと呼ばれている3次元表示技術がある。意図的にわずかにパターンをずらした図を二つ用意しておき、見る人の目の焦点を画面の手前もしくは奥にあわせてもらうという手法である。これを使うと二つの図形が三つにみえ、真ん中の図形が実際に立体的に見えるから驚きである。見るためには少し訓練が要るが、見えたら 「おうっ」 と思う。目の焦点を画面の奥に合わせることを前提に図形を書いており、円の真ん中が手前に膨れればOKである。目の焦点が画面の手前になっても3次元に見える。その場合は、円の真ん中が凹んで見える。
 このマジック・アイのパターンをみていると近視も遠視も治るといわれているが、簡単には治らない。しかし、立体視能力は短時間で向上する。多くの人は、右目と左目の能力が偏っており、この偏りによって物を立体的にみる力が弱まっている。マジック・アイのパターンをみていると両目の能力が均一になると考えられる。私の場合は、周りの景色が急に立体的にみえて感激した。もとが悪くなり過ぎていたのかもしれない。

  もし上図が立体的に見えるようだと次の絵をみて頂きたい。地球の裏側も描いている。2次元図はごちゃごちゃしているが、3次元的にみえてくると 「お~っ」です。出来たら眼の焦点を画面の奥に合わせて欲しい。
 今回は、赤道上のサイン波でした。π/2 を消すと北極上のサイン波のはずです。ですが、えっ、これがサイン波というパターンがでてきます。次回は北極上のサイン波?です。

2014年10月18日土曜日

地球温暖化メカニズム考察(13) 顕生代の気候変動2


地球温暖化メカニズム考察(13) 顕生代の気候変動2


 下図にカンブリア爆発から現代まで顕生代における気候変動に関連する項目の概略を示す。



 まず、気候の状態を顕著に示す、氷河時代であるか、無氷河時代であるかをあげた。次に、先カンブリア時代の気候に影響を与えてきた大陸の集合と分裂をあげた。その次には顕生代におきた大きな天変地異事件をあげた。更に、気候変動に影響を与え、又、気候変動から大きな影響を受けた生物の状況、特に顕生代に起きた生物の大絶滅をあげた。

 顕生代中には3度の氷河期があり、現在は3度目の氷河期のなかにいる。大陸は顕生代初期には分裂していたが、途中から集合に転じ、パンゲアと呼ばれる超大陸ができた。その後、超大陸は分裂を始め、現在も分裂中である。

 超大陸がほぼできあがった約2億5千万年前に地球内部からのマグマの大噴出があり、このとき顕生代最大の生物の大絶滅を引き起こした。これが一回目の天変地異である。2回目の天変地異は、6千5百万年前におきた大隕石の衝突である。これも生物の大絶滅を引き起こしたといわれており、このとき恐竜が絶滅した。

 この図にはあげていないが、実はという話をすると、専門家によれば現在こそが第6次の生物大絶滅期であり、過去5回の生物大絶滅より規模が大きくスピードがはやいという。この6次の大絶滅はいわずもがな人類のせいである、

 この図をみて、一番強調しなければならないと思うのは、無氷河期が長いということである。無氷河期とは、南極にも北極にも氷が全くないということ、つまり現在よりも地球の温度がずっと高いということである。

 このことから、よくリミット2℃とよく言われているが、これは根拠が薄いと言わざるを得ない。ゆっくりとした時間経過とともに地球の温度があがるのであれば、2度上がろうが5度上がろうが特に問題はない。リミット2℃というのであれば、これだけの短期間、例えば30年間で温度が2℃あがれば温暖化が温暖化を呼ぶという正のフィードバックを引き起こし、危険ですというべきである。リミット2℃という表現は適切ではないが、現実の温暖化速度は地球史的にみても例がないといわれているので、危険な状態には変わりない。

 ここにあげた超概略的な図から、生物が気候へ与える影響を読み取ることができる。生物の気候への影響は、一般に語られていることではあるが、一般に語られている以上に影響が大きいと考えているので、次回以降、時系列的に生物が与えた気候変動について述べていきたい。

2014年10月16日木曜日

VBA(1)-PPTマクロからVBAへ


VBA(1)-PPTマクロからVBAへ


 いままでPPTのマクロを紹介してきた。いままでにPPTマクロで作成してきたものは主に幾何学模様で、出力はブログやYoutubeにアップするためのJPEGやPNGファイルである。 そもそもPPTマクロとは何か。そのルーツをたどると下図のようになる。



 マイクロソフト社がプログラミング言語である「Visual Basic」(VB)を自社の Office 製品対応に改良したのが、「Visual Basic Application」である。Office製品であるWordやExcel、PPTそれぞれにマクロが用意されているが、これが「Visual Basic Application」(VBA)である。それぞれのマクロは別物のような印象を受けるが、VBの基本機能や描画ツール、テキスト挿入などは同一であるといって差し支えない。描画ツールは同一であるとすると、最終出力がJPEGやPNGファイルであれば、Wordで描いても、Excelで描いても、PPTで描いても同じということになる。
 次の2点で今後Excelのマクロいや Excel VBA を使うことにした。
  • 多量の入力データがある場合、Excelのセルにデータを入力すれば、そのデータを簡単に読み込むことができるので、Excel VBAが他のVBAと比較して便利である。
  • PPT2010にはマクロ記録がなかったが、Excelにはマクロ記録があり、かつ、描画ツールに対しても有効である。
入力データを直接、プログラムコードに書き込む方式だと作ったソフト他人に使ってもらえない。他人に使ってもらうためにはダイアログボックスを作るべきであろうが、入力データが多量にある場合は、サイズの大きなダイアログボックスを作るか、いくつもののダイアログボックスをつくることなる。ダイアログボックスを作る作業も大変だし、作っても使うほうも大変である。Excelから読み込むことにすれば、他人にも使ってもらえるし、わかりやすい。

 使うコマンドを忘れた場合や今まで使ったこともないコマンドを調べるのにマクロ記録は非常に便利である。マクロを知らなくてもマクロ記録ボタンをオンにして、操作を実行、そのあとマクロ記録終了ボタンを押せばマクロが自動的にできている。もともとマクロを知らない人にもマクロを作って定例業務に使ってもらおうという意図であったと思うが、現実はそんなにうまくいかない。しかし、コマンドの調査には最適であり、プログラムを作る人には非常に有難い機能である。



 上図はWindows 7 Excel の開発リボンである。開発リボン中にマクロ記録ボタンがある。

 これからは、Excel上でのVBA作成に移っていく。とはいってもPPTの方が都合の良い場合はPPT上で作っていくし、Wordのほうが良ければWord上で作っていく。つまりxxマクロ作成というよりVBAを作成していく。

2014年10月13日月曜日

地球温暖化メカニズム考察(12) 顕生代の気候変動1


地球温暖化メカニズム考察(12) 顕生代の気候変動1


 地球46億年の歴史は、大きく2つに分かれる。先カンブリア時代と顕生代である。5億4千万年前にカンブリア爆発とよばれる多種多様な生物が急増した。これはカンブリア爆発と呼ばれている。
カンブリア爆発の前が先カンブリア時代、その後は生物が顕著な時代、顕生代ある。 

 今まで述べてきたように大気中のCO2の増減が、気候に影響を与える。先カンブリア時代には、大陸の分裂や集合が、大気中のCO2を増減させた。大陸の分裂時には大気中のCO2が減り、大陸の集合時には大気中のCO2が増えたといわれている。このCO2の増減は、あるときには超温暖化や全球凍結の引き金になり、あるときには気候変動の抑制役を果たしてきた。

 顕生代は、生物の時代である。カンブリア爆発で多種多様かつ多量な生物が出現すると、炭素循環の主役は生物になり、生物が空気中にだすCO2の増減が気候に影響を与えるようになったと考えられる。

 先カンブリア時代の大気中のCO2の増減に影響を与えた大陸移動は、気候とは無関係に起きる。従って、ある時は気候変動を加速するように働き、ある時には気候変動を抑制するように働いた。つまり、大陸移動は気候変動に影響したが、気候変動は大陸移動になんら影響を与えない。

 生物が炭素循環の主役になった顕生代は、生物と気候は相互に影響を与えあうと考えられる。
一般に温度が高い時には、大気中にCO2が多い。CO2が増えると植物が成長し、結果として動物も増える。CO2が生物に吸収されたことになり、大気中のCO2が減り、温度が下がる。温度が下がり、寒冷化し始めると、植物は枯れ、動物は死ぬ。枯葉や死体は腐食し、CO2を放出する。大気中のCO2が増えれば、温度があがる。このように、生物の存在は気候変動を抑制する負のフィードバックになっていると考えられる。
 このように生物の存在は、気候変動を抑制するように働くと考えられる。その証拠にカンブリア爆発以降は、全球凍結も超温暖化も起きていない。
しかしながら、温度があがったからといって、直ぐには生物相が増えないし、増えたとしても直ぐに温度を下がるとは限らない。温度が下がったからといって直ぐには動物の死骸が増えたり植物が枯れたりして大気中のCO2が増えるわけではない。 タイムラグがあるし、量にも過不足がある。
 生物による気候変動に対する負のフィードバックは、不完全かつ不十分であると考えられる。

 カンブリア爆発以降、生物の大絶滅は5回起きているといわれている。カンブリア爆発が5億4千万年前であるから、生物の大絶滅は約1億年に一回となる。

 これは、次のように考えられないだろうか。
何百年、何千年という短期間では、生物の気候へのフィードバックは不十分であるが、何十万年や何百万年という期間を考えると、生物は負のフィードバックの役割を果たしている。しかし、更に何千万年、何億年と考えると、生物が気候を安定される負のフィードバック効果も不十分さが積み重なって怪しくなる。このようにして約1億年毎に生物の大絶滅が起きる。

 もう少し具体的にいうと、数千万年の長きにわたって生物の気候へのフィードバックはうまく機能しているが、一億年に近づいていくと生物の量は増えすぎて空気中のCO2が減り、寒冷化の正のフィードバックが起きて、生物の大絶滅が起きる。生物が多量に死滅するといずれ大気中のCO2が増えるので、又、生物活動が活発になる。新しい生物相で新たな気候安定期が続く。

 私は顕生代の気候変動は、このように生物の影響が最大と考えているが、あきらかに天変地異による生物大絶滅があるし、大陸位置や形状が気候変動に大きく影響を与えたとも考えられているので、次回以降それらについても考えていきたい。

2014年10月10日金曜日

気象気候あれこれ(3) – コリオリの力2


気象気候あれこれ(3) – コリオリの力2


地球は自転している。この自転のため、地球上で動いているものに対して、力が加わる。この力はコリオリの力と呼ばれている。
前回、北半球においては、台風はコリオリの力で左回り(反時計回り)、高気圧からでてくる風は右回り(時計回り)であることを示した。南半球では逆回りとなる。

 地球上に吹いている貿易風や偏西風もこのコリオリの力で説明できる。
一般に暖かい場所は大気が膨張し、軽くなって上昇するので、低気圧となる。寒いところは空気が圧縮され、重くなって下降するので、高気圧となるといわれている。

 18世紀にハドレーという人が、赤道では大気が上昇し、低気圧となる。一方北極では、大気が冷え下降して高気圧となる。このため地表では、北極から赤道に向かって、風が吹く。赤道の上空は、大気が上昇してくるので、高気圧化し、北極の上空は、大気が下降するので低圧化している。従って、上空では赤道から北極へ向けて風が吹く。このように赤道と南極の間を大気が大循環していると提唱した。(下図参照)



 現実は、北緯30度付近に高気圧帯があり、北緯60度付近に低気圧帯がある。これら高気圧帯と低気圧帯を考慮した大気循環の流れを下図で示す。


 コリオリの力を考慮すると下図のようになる。


いわゆる貿易風、偏西風は30度付近の高気圧帯、60度付近の低気圧帯を前提としてコリオリの力を考慮すると上図のように説明できる。赤道から30度までの大気の流れは、ハドレー循環、30度から60度の大気の流れをフェレル循環、60度から北極前の大気循環は極循環と言われている。 教科書やネット上で類似の図をみることができる。ここでは他の図では取り入れられていない以下の点を図で示している。
  • 地表に平行に動く風には、コリオリの力が北極では強く働くのに対し、赤道に近づくにつれて弱くなること。これは楕円の傾きで示している。
  • 上昇気流や下降気流に対しては、コリオリの力は赤道付近では最も大きく、北極に近づくにつれて弱くなくこと。これは楕円の幅で示している。
  • 上昇気流は西に動いていくのに対し、下降気流は東に動くこと。これは楕円の色と矢印でわかるようにしている。
上記のように図に差別化をしているとはいえ、既にたくさんの情報があるなか、ここで大気の流れに言及したのは、30度付近に高気圧帯があり、60度付近に低気圧帯があるのは何故かと云うことをいずれ考察したいからである。

2014年10月8日水曜日

健康(3)– 腎臓結石


健康(3)– 腎臓結石


 健康をカテゴリのひとつにしたら昔かかった病気をいろいろ思い出した。わずかかもしれないが参考になると思って書いて見る気になった。20代、30代、40代いろいろ病気をした。50代は癌かもしれないということで手術をした。40代後半から運動を心がけるようになった。今、あきらかに運動の効果がでていると実感している。病気になったおかげで運動をし、逆に健康になったと感じている。今迄かかった病気と私の健康法をこれから少しずつ書いていく。

    20代いまから40年以上前になる。朝起きると腰回りが痛い。位置はどこかと言われても腰回り全体が痛くてはっきりしない。それでも、とてつもなく痛い。歩いて約20分のところにある近所の病院に歩いて向かい始めた。あまりの痛さに少し歩いてはしゃがむ。少し歩いてはしゃがみこんだ。通勤時間帯で何人もが横を通り過ぎるのに誰も声をかけてくれない。皆薄情だと思うが姿は見えない。周りを見ている余裕がない。足跡だけが聞こえる。

 やっとの思いで病院についた。先生に言われるまま治療台に横たわる。先生が右の下腹部を抑える。「痛いか」「痛くありません」。次に先生が左の下腹部をおさえる。「痛いか」「痛くありません」。次に先生が下腹部の真ん中をおさえた。思わず唸った。「うっ 痛ったった!!」「腎臓結石です。入院して下さい」

 今は超音波で腎臓結石を砕いたり、薬で散らしたりするとのことであるが、当時はそんなものはない。ベットに横たわるだけ。痛い痛いとわめくと看護婦さんが飛んできて注射を打ってくれる。あまりに痛いので時々もう一本とおねだりをする。最初は打ってくれていたが、これは強いお薬なので、二本目はもう打てませんと言われた。打ってくれていた注射はモルヒネだった。

 腎臓結石は痛い時は痛いが、ある程度時間が経つと全く痛くなくなる。普段の元気な自分にもどる。極端な痛みと痛みの全くない時を繰り返す。先生に何故ですかと聞くと「結石が尿道に抜けていっている。その途中ところどころ狭くなっている。そこを結石が通るとき痛くなる。痛さはお産と一緒」といわれた。

 入院といってもモルヒネを打ってもらえるだけ、それもあまり打ってもらえなくなった。なんとなくもう峠は越したと思った。そう思ったら次の日に、退院しますといって勝手に退院してしまった。

 数日して小便をしているとカキンと便器に何かがあたる音がした。便器から米粒大の結石を拾い出した。

 なんで腎臓結石になったのだろう。今思えばその当時は昼と夜が逆転しており生活が不規則だった。食事も外食ばかりで偏っていた。