2016年12月11日日曜日

メディアへの提案 その1

 
 ケントギルバートさんが「何でも言って委員会NP」のパネラーとして「なんで強行採決というのか?」と疑問を投げかけていた。民主主義だと多数決が基本なので、強行採決というのはおかしいというわけだ。

 そう言われれば確かにおかしい。

 国会の質は野党で決まると思っている。野党の質をあげるために、強行採決というかわりに強行反対といったらどうだろう。

 また、審議拒否もあってはならない。

 メディアが強行採決ということをやめて、その代わりに強行反対と言い、そして、審議拒否に対して厳しく臨めば、野党の質があがり、国会の質も必然的に向上するだろう。

2016年7月3日日曜日

健康(13)– 肺に腫瘍・退院後

健康(13)– 肺に腫瘍・退院後


検査入院  禁煙  癌病棟  手術後 の続き

 喘息を治そうと思って入院の数年前から早起きして毎日歩いていた。自分流のストレッチも行っていた。運動が習慣になっていた。手術後は入院中も軽い運動をしていた。退院後、手術の強い痛みはかなり残っていたが、出社するまでの数日間よく歩いた。近くの山の尾根伝いに何時間も歩いた。
 
 全てが順調ではなかった。

 入院中、担当医が私の肺から水が抜けないといって不思議がっていた。肺から水を抜くための薬を飲まされてはレントゲンを撮られた。退院後も何度もレントゲンを撮られたが、結局水が抜けたという確証は得られなかったようだ。
 
 手術の傷口が癒え、痛みがとれても傷口のある背中とは反対の腹側の心臓の下あたりに違和感が残った。そしてストレッチで前屈をすると心臓の下がこむら返りを起こす。この違和感とこむら返りはでたりでなくなったりする。手術から14年経った今でも続いている。数日前、心臓の下がぴくぴくと痙攣する。今まで経験したことはない。これはやばいと思ったが、こむら返りも回数は少なくなっており、小さくもなっているのでこのまま様子を見ようと思っている。
 
 喘息も完全に治ったとはいえない。喘息は気管支の恒常的な炎症であり、治療は極微量のステロイドを吸い続けること。普通の病気だと少し回復すると薬を飲まなくなるのが通常だが、喘息を患った人は、発作の苦しさが骨身にしみているので、続けられるとのこと。私も未だに吸引している。
   
 とはいえ、禁煙から14年、肺の調子は確実によくなっている。新たな問題は、体のことをあまり気にしなくなり、朝の早起きも散歩もあまりしなくなったことである。季節の変わり目に喘息気味なると無理はやめとこうとか、花粉の季節になると外を歩くのをやめようとか守りの姿勢にはいってしまう。
   
 これではよくないと思ったが、朝は早く起きられない、長時間歩く気にもならない。朝早く起きられなかった分を取り戻すため、また、短時間で運動を終わらせるため、最近、ジョギングを始めた。以前の私では考えられなかったことであるが、30分近く走ることができる。こんなに回復しているのかと我ながら驚く。でも暑くなってきたので、ジョギングはやめようかという気分になっている。
   
 喘息になって、これはやばい、なんとかせねばと思ってから、朝の早起きと散歩を習慣にすることができた。肺に腫瘍が見つかってから禁煙もした。しかし、喘息発作の回数が減り、肺の調子がよくなるにつれ、運動の意識が薄れてきた。
 
 今までの経験からして、健康を害してから健康を考えるのでは遅い。概して健康と思っているときこそ、健康と運動を意識しなければならないだろう。病気予防さらには健康長寿のため、攻めすぎは問題かもしれないが、攻めの姿勢で運動を確実に習慣にすべきではないかと思っている。
 

2016年7月2日土曜日

健康(12)– 肺に腫瘍・手術後

健康(12)– 肺に腫瘍・手術後


検査入院 禁煙 癌病棟 の続き

 癌では無かったですよという女医先生の声で麻酔から覚めた。
 
 体中に何か付けられていて、目の前は計測器だらけ。隣のおじさんは肺を半分取ったのにその日のうちに夕食を食べていた。私は肺の一部しかとっていないのに食事が食べられない。食べたいという気が出ないほどくたばっている。数日先に肺活量の検査があった。隣のおじさんは肺が半分なのに私よりだいぶ肺活量がある。癌ではなかったが、私の肺はかなり悪かったようだ。
 
 次の日から食事がとれた。背中から管がでている。背中には液体が入ったものを背負わされて普通に歩かされた。背中の液体の中は自分の吐く息が泡となってでていたように思う。今から思えば背負わされたものは何であったのか、何の機能を果たしていたのか、何故何も聞かなかったのかと不思議である。手術後の痛みに耐えることや普通ならなんでもない日常生活を送るのに一所懸命であり余裕が無かったのだろうと今推察する。
 
 家族は他の人と比べて直ぐに帰ってきたので、手遅れだったかと一瞬思ったそうであるが、腫瘍が良性であったと知ると私に対する不満が一気に噴き出した。これで家族が受けているストレスがわかった。
   
 この話を隣の患者さんの母娘にすると二人が同時に急に堰を切ったように、自分たちは如何にストレスを受けているか、それが本人にわかっているのかと言うようなことを、大きな声で私に一気に話してきたので吃驚した。
   
 この病院では注射タイムというのがあって、数人の看護婦さんに行列を作って並んで注射をうってもらう。どの看護婦さんにあたるかは事前にわからない。ここでも注射の下手な看護婦がいて、みんなその看護婦さんにあたることを嫌がっていた。注射のあと、あの看護婦さんにあたらなくてよかったとか、今日は運が悪かったとかが話題になっていた。
   
 20年前の入院は長期にわたったこともあり、注射の下手な看護婦さんには恐怖を感じ、悪人に見えた。想像するに注射の下手な看護婦は自分が下手のことに気がついていないのではないか。看護婦さんを怒らしてしっぺ返しを想像するので直接言うことは憚られる。間接的にいうべきだったかもしれない。
 
 私の腫瘍はいろいろ調べたが、わからなかったとのこと。

2016年7月1日金曜日

健康(11)– 肺に腫瘍・癌病棟

健康(11)– 肺に腫瘍・癌病棟


検査入院 禁煙 の続き


 約束の1ヶ月後病院へ行った。禁煙は約束の半分しかできていない。特に確認されなかったので、何も言っていない。すぐに入院することになった。入院したところは、6人の大部屋であり、直接的に間接的に聞いて、周りの人は全員癌であることがわかった。みんな大部屋にいることを喜んでいた。もし個室であればふさぎ込むであろうが、大部屋では、お互いに情報交換もできる。同じ悩みを話していれば、気は紛れるし、元気づけられもする。でもこの部屋にいる人は手術で助かる可能性を持っている人たちである。3階には手術できない癌患者ばかりで雰囲気が暗いという。周りの人は入院後1~2日後手術が行われるのに私は2週間近く待たされた。検査で禁煙期間がわかるのかな? 喘息持ちの手術は危険で私の体調を見計らっていたようでもあった。

   肺癌手術でも手術が終われば普通に食事をし、そして次の日からは歩かされる。しかし、体には管が入ったままで、背中には器具を背負わされている。 

 手術の日が近づき毎日種々の検査が行われたが、垣間見える検査結果から私は癌では無いと思った。手術の前日、麻酔医の方がこられて私の体を触診された。私の体は麻酔医泣かせで麻酔注射を打つ場所がわかりにくいとのことであった。麻酔は背中に注射される。以前の盲腸の時も背中に注射された。あの時、私には麻酔があまり効いていなかった。多分注射が少しはずれたのだろう。

   手術の前日、担当医から妻と娘同席で手術内容について話があった。手術で真ん中の太い気管が傷つくと即死になりますが、そんなことが起きないように手術します。と切り出された。おいおいそこから始まるのか。腫瘍がある左の肺は上下二つに分かれています。ちなみに右肺は三つに分かれています。腫瘍は左上の肺の下方にあります。腫瘍部分を切リ取って直ぐに癌かどうか検査します。腫瘍が癌で下の肺にまで達していたら、左の肺全部を摘出します。そうでなかったら肺の上部を取ります。喘息を持っているので喘息の発作が起きたら危険です。腫瘍が良性であっても取り除きます。
 
 私の直前に手術された方は、手術室からすぐ帰ってこられた。聞けば既に手遅れだったとのこと。動揺しておられるふうもなく、いつものように淡々と何事もなかったように雑談されたのには驚かされた。

 しばらくして、私の番になった。手術台に乗せられて大部屋を出て行くときの自分を覚えている。20年前の手術ではとにかく痛くて早く切ってくれとの一心だった。痛くて朦朧として手術台に乗せられたことも記憶にない。今回はどこにも異常が感じられない。2週間近くの病院で日頃の疲れはとれている。禁煙も1ヶ月になる。喘息の気配もない。体はぴんぴんしている。それだけに不安が忍び寄る。危険かもしれないところに敢えて突き進む高揚感のようなものもあった。手術室に着くと直ぐに麻酔を打たれて数を数得るように言われた。五つも数えないうちに意識をなくした。

2016年6月30日木曜日

健康(10)– 肺に腫瘍・ついに禁煙

健康(10)– 肺に腫瘍・ついに禁煙


検査入院 の続き


 禁煙して1ヶ月後に入院するようにいわれていた。 煙草をやめないと前へ進まないとわかっていても簡単にやめられない。 病院から禁煙をきつくいわれてからも2週間吸い続けた。 その頃、用事があって遠くにある実家に帰った。 そこで喘息の発作が起きた。発作はしばらく起きていなかったので、よく効く薬を持っていなかった。 近くの病院に行ったが、発作はおさまらない。 この時、苦しい、煙草もおいしくない、もう煙草をやめようと思った。

 今まで何度も煙草をやめようと思って頭の中の「喫煙スイッチ」をオフにしたが、オフにならない。 オフにしたつもりが、すぐにオンになっている。30年以上この状態が続いていた。 喘息の発作でどんなに苦しんでいても、煙草の誘惑に負け続けてきた。

 ところがこの時は頭の中のスイッチがオフになった。 そしてオフにロックされた。意を決して、禁煙をしたのではない。 決心ならいままで何度もしてきた。 いままで何度強く押しても、その都度強力な反発力でオフにならなかった。 そのスイッチが、そんなに強く押していないのに何の抵抗もなく、すっといとも簡単にスイッチがはいってしまった。 このスイッチはオンにならない。そう確信できた。

  病院の指示通り1ヶ月禁煙し、手術後悪い結果がでなければ、また喫煙することもありえた。 何故、禁煙できたのか。

 癌かもしれないし、煙草もうまいとは感じなくなっていた。 病院の先生が、何度も喫煙しているとどんな治療も効かないと繰り返したことも大きかったと思う。 癌であろうと無かろうと煙草を吸い続けていたら余命は長くないと感じていたこともある。 何が決定打であったかよくわからない。

 いろんな不安や思いが重なって喫煙スイッチが確実にオフになったのであろう。いまでも自分の意志で禁煙できたという感じはない。
   

2016年6月29日水曜日

健康(9)– 肺に腫瘍・検査入院

健康(9)– 肺に腫瘍・検査入院


 ある日会社の診療所から電話がかかってきた。肺で引っかかったのではないかと予想しながら診療所にいく。診療所の先生から手のひら大の写真を見せられた。案の定、肺の写真で素人目にも腫瘍が写っている。小さい写真なのに腫瘍はやけに大きい。頭の中で写真を実物大まで拡大してみる。握り拳ほどの大きさになる。頭がガクンと落ちた。先生が肩を叩いてまだ決まったわけではないと言う。いくつかの病院を示してどこにするかと言われる。大きな病院を選んだ。紹介状をもらって診療室をでた自分を今でも覚えている。

 いろんな検査が受けた。覚えているのをあげると、やたら大きな風船による肺活量測定、脳のMRI、CTスキャン、PET。その他の装置名は覚えていないが、脳と骨の検査がやたら多かった。ずっと後で肺癌は脳と骨に散りやすいと聞いた。CTスキャンの画像を見ることができた。卵大ぐらいの腫瘍と思っていたが、現実は人差し指の先ほどであった。当時癌検診の最先端装置であるPETは別の病院で受けた。当時PETは、まだ日本には2台しかなく、その病院はPETを導入したおかげで苦しかった経営が一気に回復したとのことであった。
 
 何日にもわたり、いろんな検査をされたあと、検査入院をして下さいと言われた。えっ検査だけで入院? 入院手続きを済ますと、今から検査しますと言って車椅子に乗せられた。元気なのに何故? それ程の検査ですと言われた。肺を内視鏡で見るのだという。
 口から内視鏡を入れられた。経験したことのない、表現しようのない、不思議な苦しみが襲ってくる。はねられる、はねられるという先生の言葉が聞こえてくる。内視鏡が腫瘍にあたってどうもうまく見ることができないようであった。終わると何故か自分がぐったりしている。確かに車椅子が要る。その日は病院で一泊した。

 外科部長から一連の検査結果が伝えられた。いろいろ調べたが、腫瘍が悪性か良性かどうかはわからなかった。手術で腫瘍を切って、即時に検査する。その後継続する手術は検査結果に応じて行う。
 「先生、わからないのであれば、手術しなくてもよいのでは?」
 「癌だったらどうする」と声を荒げられた。

 手術に先駆けて煙草をやめること。煙草をやめないとどんな治療をしても無意味である。 まずは煙草をやめること。1ヶ月たってから来院するようにと言われた。また、私は喘息を持っているので、もし手術中に喘息の発作が起きると非常に危険なので体調を見ながら手術を行うとのことであった。

2016年6月27日月曜日

健康(8)– 喘息

健康(8)– 喘息


 肝臓を悪くして食事に気をつけるようにしていたが、γ-GTPもGPTも正常値に戻ると食事に気をつけなくなった。鼻に常時おできができるほど、体調が悪くなった。でも、結婚すると、体質が改善されたかのように体調はよくなった。

 「今日も元気だ、煙草がうまい」そんなCMどおりの気分で煙草を吸っていた。そして、煙草の本数は徐々に増えていった。会社の上司から、「のべつ幕無く煙草を吸う輩がいる」とみんなの前で暗に私を指して叱られてしまうほど煙草を吸うようになっていた。

 43~4才のころ小学生の息子が友達を連れてきてお父さんマラソンをしようという。いいよ、と言って走り始めたが、直ぐに苦しくなってしまい、すぐに子供達は遠くに行ってしまった。少ししか走っていないのに、呼吸困難になり、家に帰り寝込んでしまった。でもこの時は特に何かの症状がでるというわけではなかった

 だんだん咳をするようになった。更に咳こみがすすみ、時々、咳が止まらなくなった。喘息に違いない。発作が頻発するようなり、団地内の病院に通ったが、少しもよくならない。女房が喘息に詳しい先生がいる病院を聞き出してくれた。そこに行くと応急措置とアレルギーの検査が行われた。のちのち看護婦さんからあの時の私の症状はひどかったと何度も言われた。

 一週間後にでた検査結果では、杉と稲科の花粉アレルギー反応が突出しており、アレルギー起因の喘息だと診断された。

 この病院でくれた喘息発作時のスプレーはよく効いた。喘息の薬はよく効くようになっているが、心拍数が異常にあがるなど心臓によくないと誰かが言っていたが、この時渡されたスプレーは2回強く吸うだけで、心臓への負担は全く感じられなく、嘘のように喘息が治まった。

 煙草は吸い続けた。咳き込みそうになるとシュッシュッとスプレーを二吹き。何事もなかったように、すっと治まる。又、煙草を吸う。
 こういった日々をしばらく繰り返していたが、スプレーが効かなくなってきた。病院にいくと今度はお尻に注射を打ってくれた。これがまたよく効いた。病院を出ると一服。 

 でも注射も効かなくなった。看護婦さんにもう一本とおねだり。二本売ってもらうと効いた。病院を出ると一服。ある日、看護婦さんに二本目売ってもらおうとすると看護婦さんの目がつりあがった。強いお薬なのでこれ以上打てません。

 発作時のスプレー以外に根本治療薬を病院から渡されていたが、効く気配がない。 喘息発作時のスプレーも注射ももう効かない。何とかしなければと思って、ぜいぜい言いながら散歩をはじめた。自宅から10分も歩けば標高300mの山の麓にたどり着く。土曜日と日曜日はその山に登るようになった。
 
 喘息を治そうと無理をして歩く。肺が弱っているだけではなかった。足腰もかなり弱っていることがわかった。散歩の途中で煙草は吸わないことにした。でも自宅に帰ってから吸っていた。
 
 喘息を治すぞと、がむしゃらに歩いた。4時間5時間も歩くようになった。そのときわかったことが足腰は長時間歩くと疲れるが肺は調子がよくなる。とはいっても「ぜいぜい」はとれない。
 
 女房が買ってきた早起きの効果の本を読んだ。早起きで仕事や勉強が効率的になると言う本だったが、早朝散歩も勧めていた。土日の散歩のみでは足りないと感じていたので、早く起きて歩くことにした。 

 朝の散歩も土日の山歩きも気持ちがよい。とにかく歩いた。足腰が強くなり、肺も少しよくなった。そして、スプレーも効く。それでも肺の調子は一進一退で特に季節の変わり目に喘息がでた。いつ喘息でてもいいようにスプレーは肌身離さず持っていた。 

 このような状態が5~6年続いた。会社の診療所から電話があって、来てくれと言う。

2016年6月25日土曜日

健康(7)– 盲腸周囲膿瘍-退院後

健康(7)– 盲腸周囲膿瘍-退院後


前々回 排尿痛 および 前回 盲腸周囲膿瘍の続き

 1979年2月退院。退院しても病気が治った気がしない。長い間、病名すらわからず、その間に体に膿がどんどん溜まっていったせいか、心身をすり減らしていた。
 振り返ってみれば、体調の悪さを感じたのは、夏前、会社を休職して、誤診による病院通いをしたのは秋。救急車で入院したのは年末。会社に復帰したのが、2月末。

 会社に復帰してしばらくは、えっ、今10月でなく2月と思うことが何度もあった。アパートに帰って、テレビを見ていても、全然頭に入らない。水戸黄門ですら見終わってどんな内容だったかも思い出せなかった。

 歩けなくなるほど痛みを感じてから手術まで6~7ヶ月、退院後の2~3ヶ月、合わせて9ヶ月以上、この時ほど、周りが見えてなかったときはない。退院後、危機は脱したはずなのに生きている心地はしない。もうだめだという意識が抜けない。

 長期間の治療で肝臓がやられており、γ-GPTとGTPの値が高かった。肝臓は悪くなっても自覚症状はない。会社の診療所の先生は、治すには食事療法しかないという。外食であったが、極力日本食を食べることにした。あとから振り返ってみれば体は少しずつだけれど、回復していた。

 当時は意識していなかったが、心の回復は随分遅れた。心が壊れていると、いままで全く何も感じていなかったものに対しても、恐怖心が湧き、なかなか消えない。特にテレビで救急車の音を聞くのは耐えきれなかった。病院の場面もみることができなかった。ずっと後にこの話を人にするとPTSDだという。いわゆるトラウマである。そうだったかもしれない。

 アパートに女性が人参茶を売りにきた。非常に暑い日だった。クーラーはない。こちらはパンツ一丁なのに女性が上がり込んで、人参茶の効用を熱心に説明した。人参茶は酸化ゲルマニウムを多量に含んでおり、酸化ゲルマニウム中の酸素が体質を根本的に改善するという。2ダース注文した。体質改善に2ダースは必要と言われたと思う。次の日、こんなに多量に買う必要はないと思い直して、1ダースにした。それでも1本約5万円計およそ60万円。

 この人参茶は体にどれだけよかったかどうかわからない。しかし、心の支えになった。これを飲んでいると何故か少し安心した。2年半はほぼ毎日確実に小さな匙に毎2杯ずつ飲み続けた。3年目の終わり頃はだんだん飲まなくなった。そして最後の一本には黴が生えたので捨てた。この時、もう大丈夫と思った。心が回復した瞬間だった。

 私に人参茶を売りつけたのは誰だったのだろう。私が人参茶を買って数年たって、統一教会が高価な人参茶と壺を売っているという情報がメディアを賑わした。そういえば、人参茶を買って一ヶ月もたたないころ、今度は男性が壺を売りに来た。壺が体に効くはずもないし、霊が壺に宿るなんて全く信じないので断った。私は絶対買うと確信していたのだが、と販売員は見込み違いを残念がった。

 統一教会は当時いろいろ話題になったが、事件性があるというわけではなかった。私が飲んだ人参茶はどうだったのだろうか。これを書きながら気になりネットで調べてみた。統一教会が扱う商品のなかではまともであるとのこと。人参茶としては、統一教会が売るので高いが、という注釈がついているものの一級品であるとのこと。そうなると最後の一本はもったいなかった。
 
 入院しているのに会社からは早く出社しろと催促されていた。先生が自宅療養期間を指示してくれていたので、その通りにした。会社仕事はどこも楽なところはない。長時間労働でストレスが溜まる。なんらかの嗜好品に走る。私の場合、コーヒーと煙草であった。あれだけ大変な思いをしたのに、退院後1ヶ月もしないうちから煙草を吸い始めた。入院しているとき、これで煙草がやめられると思っていたのに、又、吸い始めてしまった。何故この時やめなかったかと後で悔いることになる。

 せっかく大病を患ったのに、私が体によいことをしたのは、人参茶を買って3年近く飲み続けたぐらいである。せめて禁煙すべきであった。禁煙しておけば約10年後に煩った病気にならずにすんだ。又、20年後に受けた手術もいらなかった、 

 次は40代に煩った病気について述べる。

2016年6月18日土曜日

健康(6)– 盲腸周囲膿瘍

健康(6)– 盲腸周囲膿瘍

排尿痛の続き

 手術が終わっても生きのびた感はなかった。病名は、盲腸周囲膿瘍で、盲腸があった場所に膿がたまる病気であった。ひどい臭いがして、完全に取り除くよう大きく切ったとのこと。これらは母から間接的に聞いた。手術前後も手術した先生の顔も全く覚えていない。
 気がつけば、おちんちんに管がついている。尿意があるようでもあり、ないようでもある。いつ放尿したかもわからない。でも放尿はしている。気色悪さ感が消えない。これはつらかった。

 手術の次の日から毎日、院長先生が太くて長い針金のようなものを持ってきて、手術した箇所につっこみかき回す。こうすると早く直るとのことであった。
  針金は1週間近く、尿管は約2週間近く続いた。長時間の点滴も毎日ある。針金の痛さは短時間であるが、尿管の気持ち悪さは途絶えることがない。大便は寝たままで他人の力を借りなければならない。これもたまらなくいやであった。

 尿管が抜かれて、やっと寝たきりから解放された。立ち上がるとふらふらすると言われていたが、自分は、普通に歩けると感じた。実際に立ち上がると平衡感覚がなくなっているのに吃驚した。点滴は更に続いた。点滴の針がはいりにくくなって、今度は点滴が苦痛になってきた。看護婦さんの上手下手で点滴のつらさがかなり違う。下手な看護婦さんがくるとおおげさでなく、恐怖に震えた。

 隣は50歳ぐらいの胃潰瘍の男性で、さかんに先生が手術を勧めるが断り続けていた。私は早く切ってくれと切望したのに、この人は拒否している。誰だって痛みがなければ、手術は躊躇するだろう。私の場合は、手術の怖さより、一刻も早く痛さから解放されたかった。
 
 隣の男性は最後は、手術を選択された。数日後、先生がその方に術後の血液検査に問題ありませんでしたよと言われたとき、何を言われているのかわからないようで、かなりたって、あっ、そうかと言われた。輸血は肝炎発症の可能性があり、肝炎の検査で問題がなかったと告げられたのだ。もし、肝炎の危険性を意識されていたら手術はもっと遅れたであろう。

  隣で何週間も一緒だったのに、記憶はこのくらいでほとんどない。今から思えば、体力は消耗しきっており、ぼーっとしている状況が続いていたようだ。

 次に隣に来られたのは、おばあさんで90歳前後のように見えた。「先生、私死ぬのですか」と周りを気にすることなく、さかんに問いかけられる。ネガティブオーラが取り囲んでいるような感じでこちらまで、暗くなってしまう。

 おとなしかった私がいろいろ愚痴を言い始めたようで、このとき、家族はもう大丈夫だと思ったようだ。

 点滴はつらい。隣のばあさんもたまらない。先生に退院をお願いしたら、許された。

 盲腸周囲膿瘍は盲腸を患った人のうち5%ぐらいがかかると聞いた。習慣になって何度も手術を繰り返えす人がいるとも聞いたが、私の場合、幸いなことに30年以上たっても再発していない。

 退院しても、完治には長い時間がかかった。