2016年6月30日木曜日

健康(10)– 肺に腫瘍・ついに禁煙

健康(10)– 肺に腫瘍・ついに禁煙


検査入院 の続き


 禁煙して1ヶ月後に入院するようにいわれていた。 煙草をやめないと前へ進まないとわかっていても簡単にやめられない。 病院から禁煙をきつくいわれてからも2週間吸い続けた。 その頃、用事があって遠くにある実家に帰った。 そこで喘息の発作が起きた。発作はしばらく起きていなかったので、よく効く薬を持っていなかった。 近くの病院に行ったが、発作はおさまらない。 この時、苦しい、煙草もおいしくない、もう煙草をやめようと思った。

 今まで何度も煙草をやめようと思って頭の中の「喫煙スイッチ」をオフにしたが、オフにならない。 オフにしたつもりが、すぐにオンになっている。30年以上この状態が続いていた。 喘息の発作でどんなに苦しんでいても、煙草の誘惑に負け続けてきた。

 ところがこの時は頭の中のスイッチがオフになった。 そしてオフにロックされた。意を決して、禁煙をしたのではない。 決心ならいままで何度もしてきた。 いままで何度強く押しても、その都度強力な反発力でオフにならなかった。 そのスイッチが、そんなに強く押していないのに何の抵抗もなく、すっといとも簡単にスイッチがはいってしまった。 このスイッチはオンにならない。そう確信できた。

  病院の指示通り1ヶ月禁煙し、手術後悪い結果がでなければ、また喫煙することもありえた。 何故、禁煙できたのか。

 癌かもしれないし、煙草もうまいとは感じなくなっていた。 病院の先生が、何度も喫煙しているとどんな治療も効かないと繰り返したことも大きかったと思う。 癌であろうと無かろうと煙草を吸い続けていたら余命は長くないと感じていたこともある。 何が決定打であったかよくわからない。

 いろんな不安や思いが重なって喫煙スイッチが確実にオフになったのであろう。いまでも自分の意志で禁煙できたという感じはない。
   

2016年6月29日水曜日

健康(9)– 肺に腫瘍・検査入院

健康(9)– 肺に腫瘍・検査入院


 ある日会社の診療所から電話がかかってきた。肺で引っかかったのではないかと予想しながら診療所にいく。診療所の先生から手のひら大の写真を見せられた。案の定、肺の写真で素人目にも腫瘍が写っている。小さい写真なのに腫瘍はやけに大きい。頭の中で写真を実物大まで拡大してみる。握り拳ほどの大きさになる。頭がガクンと落ちた。先生が肩を叩いてまだ決まったわけではないと言う。いくつかの病院を示してどこにするかと言われる。大きな病院を選んだ。紹介状をもらって診療室をでた自分を今でも覚えている。

 いろんな検査が受けた。覚えているのをあげると、やたら大きな風船による肺活量測定、脳のMRI、CTスキャン、PET。その他の装置名は覚えていないが、脳と骨の検査がやたら多かった。ずっと後で肺癌は脳と骨に散りやすいと聞いた。CTスキャンの画像を見ることができた。卵大ぐらいの腫瘍と思っていたが、現実は人差し指の先ほどであった。当時癌検診の最先端装置であるPETは別の病院で受けた。当時PETは、まだ日本には2台しかなく、その病院はPETを導入したおかげで苦しかった経営が一気に回復したとのことであった。
 
 何日にもわたり、いろんな検査をされたあと、検査入院をして下さいと言われた。えっ検査だけで入院? 入院手続きを済ますと、今から検査しますと言って車椅子に乗せられた。元気なのに何故? それ程の検査ですと言われた。肺を内視鏡で見るのだという。
 口から内視鏡を入れられた。経験したことのない、表現しようのない、不思議な苦しみが襲ってくる。はねられる、はねられるという先生の言葉が聞こえてくる。内視鏡が腫瘍にあたってどうもうまく見ることができないようであった。終わると何故か自分がぐったりしている。確かに車椅子が要る。その日は病院で一泊した。

 外科部長から一連の検査結果が伝えられた。いろいろ調べたが、腫瘍が悪性か良性かどうかはわからなかった。手術で腫瘍を切って、即時に検査する。その後継続する手術は検査結果に応じて行う。
 「先生、わからないのであれば、手術しなくてもよいのでは?」
 「癌だったらどうする」と声を荒げられた。

 手術に先駆けて煙草をやめること。煙草をやめないとどんな治療をしても無意味である。 まずは煙草をやめること。1ヶ月たってから来院するようにと言われた。また、私は喘息を持っているので、もし手術中に喘息の発作が起きると非常に危険なので体調を見ながら手術を行うとのことであった。

2016年6月27日月曜日

健康(8)– 喘息

健康(8)– 喘息


 肝臓を悪くして食事に気をつけるようにしていたが、γ-GTPもGPTも正常値に戻ると食事に気をつけなくなった。鼻に常時おできができるほど、体調が悪くなった。でも、結婚すると、体質が改善されたかのように体調はよくなった。

 「今日も元気だ、煙草がうまい」そんなCMどおりの気分で煙草を吸っていた。そして、煙草の本数は徐々に増えていった。会社の上司から、「のべつ幕無く煙草を吸う輩がいる」とみんなの前で暗に私を指して叱られてしまうほど煙草を吸うようになっていた。

 43~4才のころ小学生の息子が友達を連れてきてお父さんマラソンをしようという。いいよ、と言って走り始めたが、直ぐに苦しくなってしまい、すぐに子供達は遠くに行ってしまった。少ししか走っていないのに、呼吸困難になり、家に帰り寝込んでしまった。でもこの時は特に何かの症状がでるというわけではなかった

 だんだん咳をするようになった。更に咳こみがすすみ、時々、咳が止まらなくなった。喘息に違いない。発作が頻発するようなり、団地内の病院に通ったが、少しもよくならない。女房が喘息に詳しい先生がいる病院を聞き出してくれた。そこに行くと応急措置とアレルギーの検査が行われた。のちのち看護婦さんからあの時の私の症状はひどかったと何度も言われた。

 一週間後にでた検査結果では、杉と稲科の花粉アレルギー反応が突出しており、アレルギー起因の喘息だと診断された。

 この病院でくれた喘息発作時のスプレーはよく効いた。喘息の薬はよく効くようになっているが、心拍数が異常にあがるなど心臓によくないと誰かが言っていたが、この時渡されたスプレーは2回強く吸うだけで、心臓への負担は全く感じられなく、嘘のように喘息が治まった。

 煙草は吸い続けた。咳き込みそうになるとシュッシュッとスプレーを二吹き。何事もなかったように、すっと治まる。又、煙草を吸う。
 こういった日々をしばらく繰り返していたが、スプレーが効かなくなってきた。病院にいくと今度はお尻に注射を打ってくれた。これがまたよく効いた。病院を出ると一服。 

 でも注射も効かなくなった。看護婦さんにもう一本とおねだり。二本売ってもらうと効いた。病院を出ると一服。ある日、看護婦さんに二本目売ってもらおうとすると看護婦さんの目がつりあがった。強いお薬なのでこれ以上打てません。

 発作時のスプレー以外に根本治療薬を病院から渡されていたが、効く気配がない。 喘息発作時のスプレーも注射ももう効かない。何とかしなければと思って、ぜいぜい言いながら散歩をはじめた。自宅から10分も歩けば標高300mの山の麓にたどり着く。土曜日と日曜日はその山に登るようになった。
 
 喘息を治そうと無理をして歩く。肺が弱っているだけではなかった。足腰もかなり弱っていることがわかった。散歩の途中で煙草は吸わないことにした。でも自宅に帰ってから吸っていた。
 
 喘息を治すぞと、がむしゃらに歩いた。4時間5時間も歩くようになった。そのときわかったことが足腰は長時間歩くと疲れるが肺は調子がよくなる。とはいっても「ぜいぜい」はとれない。
 
 女房が買ってきた早起きの効果の本を読んだ。早起きで仕事や勉強が効率的になると言う本だったが、早朝散歩も勧めていた。土日の散歩のみでは足りないと感じていたので、早く起きて歩くことにした。 

 朝の散歩も土日の山歩きも気持ちがよい。とにかく歩いた。足腰が強くなり、肺も少しよくなった。そして、スプレーも効く。それでも肺の調子は一進一退で特に季節の変わり目に喘息がでた。いつ喘息でてもいいようにスプレーは肌身離さず持っていた。 

 このような状態が5~6年続いた。会社の診療所から電話があって、来てくれと言う。

2016年6月25日土曜日

健康(7)– 盲腸周囲膿瘍-退院後

健康(7)– 盲腸周囲膿瘍-退院後


前々回 排尿痛 および 前回 盲腸周囲膿瘍の続き

 1979年2月退院。退院しても病気が治った気がしない。長い間、病名すらわからず、その間に体に膿がどんどん溜まっていったせいか、心身をすり減らしていた。
 振り返ってみれば、体調の悪さを感じたのは、夏前、会社を休職して、誤診による病院通いをしたのは秋。救急車で入院したのは年末。会社に復帰したのが、2月末。

 会社に復帰してしばらくは、えっ、今10月でなく2月と思うことが何度もあった。アパートに帰って、テレビを見ていても、全然頭に入らない。水戸黄門ですら見終わってどんな内容だったかも思い出せなかった。

 歩けなくなるほど痛みを感じてから手術まで6~7ヶ月、退院後の2~3ヶ月、合わせて9ヶ月以上、この時ほど、周りが見えてなかったときはない。退院後、危機は脱したはずなのに生きている心地はしない。もうだめだという意識が抜けない。

 長期間の治療で肝臓がやられており、γ-GPTとGTPの値が高かった。肝臓は悪くなっても自覚症状はない。会社の診療所の先生は、治すには食事療法しかないという。外食であったが、極力日本食を食べることにした。あとから振り返ってみれば体は少しずつだけれど、回復していた。

 当時は意識していなかったが、心の回復は随分遅れた。心が壊れていると、いままで全く何も感じていなかったものに対しても、恐怖心が湧き、なかなか消えない。特にテレビで救急車の音を聞くのは耐えきれなかった。病院の場面もみることができなかった。ずっと後にこの話を人にするとPTSDだという。いわゆるトラウマである。そうだったかもしれない。

 アパートに女性が人参茶を売りにきた。非常に暑い日だった。クーラーはない。こちらはパンツ一丁なのに女性が上がり込んで、人参茶の効用を熱心に説明した。人参茶は酸化ゲルマニウムを多量に含んでおり、酸化ゲルマニウム中の酸素が体質を根本的に改善するという。2ダース注文した。体質改善に2ダースは必要と言われたと思う。次の日、こんなに多量に買う必要はないと思い直して、1ダースにした。それでも1本約5万円計およそ60万円。

 この人参茶は体にどれだけよかったかどうかわからない。しかし、心の支えになった。これを飲んでいると何故か少し安心した。2年半はほぼ毎日確実に小さな匙に毎2杯ずつ飲み続けた。3年目の終わり頃はだんだん飲まなくなった。そして最後の一本には黴が生えたので捨てた。この時、もう大丈夫と思った。心が回復した瞬間だった。

 私に人参茶を売りつけたのは誰だったのだろう。私が人参茶を買って数年たって、統一教会が高価な人参茶と壺を売っているという情報がメディアを賑わした。そういえば、人参茶を買って一ヶ月もたたないころ、今度は男性が壺を売りに来た。壺が体に効くはずもないし、霊が壺に宿るなんて全く信じないので断った。私は絶対買うと確信していたのだが、と販売員は見込み違いを残念がった。

 統一教会は当時いろいろ話題になったが、事件性があるというわけではなかった。私が飲んだ人参茶はどうだったのだろうか。これを書きながら気になりネットで調べてみた。統一教会が扱う商品のなかではまともであるとのこと。人参茶としては、統一教会が売るので高いが、という注釈がついているものの一級品であるとのこと。そうなると最後の一本はもったいなかった。
 
 入院しているのに会社からは早く出社しろと催促されていた。先生が自宅療養期間を指示してくれていたので、その通りにした。会社仕事はどこも楽なところはない。長時間労働でストレスが溜まる。なんらかの嗜好品に走る。私の場合、コーヒーと煙草であった。あれだけ大変な思いをしたのに、退院後1ヶ月もしないうちから煙草を吸い始めた。入院しているとき、これで煙草がやめられると思っていたのに、又、吸い始めてしまった。何故この時やめなかったかと後で悔いることになる。

 せっかく大病を患ったのに、私が体によいことをしたのは、人参茶を買って3年近く飲み続けたぐらいである。せめて禁煙すべきであった。禁煙しておけば約10年後に煩った病気にならずにすんだ。又、20年後に受けた手術もいらなかった、 

 次は40代に煩った病気について述べる。

2016年6月18日土曜日

健康(6)– 盲腸周囲膿瘍

健康(6)– 盲腸周囲膿瘍

排尿痛の続き

 手術が終わっても生きのびた感はなかった。病名は、盲腸周囲膿瘍で、盲腸があった場所に膿がたまる病気であった。ひどい臭いがして、完全に取り除くよう大きく切ったとのこと。これらは母から間接的に聞いた。手術前後も手術した先生の顔も全く覚えていない。
 気がつけば、おちんちんに管がついている。尿意があるようでもあり、ないようでもある。いつ放尿したかもわからない。でも放尿はしている。気色悪さ感が消えない。これはつらかった。

 手術の次の日から毎日、院長先生が太くて長い針金のようなものを持ってきて、手術した箇所につっこみかき回す。こうすると早く直るとのことであった。
  針金は1週間近く、尿管は約2週間近く続いた。長時間の点滴も毎日ある。針金の痛さは短時間であるが、尿管の気持ち悪さは途絶えることがない。大便は寝たままで他人の力を借りなければならない。これもたまらなくいやであった。

 尿管が抜かれて、やっと寝たきりから解放された。立ち上がるとふらふらすると言われていたが、自分は、普通に歩けると感じた。実際に立ち上がると平衡感覚がなくなっているのに吃驚した。点滴は更に続いた。点滴の針がはいりにくくなって、今度は点滴が苦痛になってきた。看護婦さんの上手下手で点滴のつらさがかなり違う。下手な看護婦さんがくるとおおげさでなく、恐怖に震えた。

 隣は50歳ぐらいの胃潰瘍の男性で、さかんに先生が手術を勧めるが断り続けていた。私は早く切ってくれと切望したのに、この人は拒否している。誰だって痛みがなければ、手術は躊躇するだろう。私の場合は、手術の怖さより、一刻も早く痛さから解放されたかった。
 
 隣の男性は最後は、手術を選択された。数日後、先生がその方に術後の血液検査に問題ありませんでしたよと言われたとき、何を言われているのかわからないようで、かなりたって、あっ、そうかと言われた。輸血は肝炎発症の可能性があり、肝炎の検査で問題がなかったと告げられたのだ。もし、肝炎の危険性を意識されていたら手術はもっと遅れたであろう。

  隣で何週間も一緒だったのに、記憶はこのくらいでほとんどない。今から思えば、体力は消耗しきっており、ぼーっとしている状況が続いていたようだ。

 次に隣に来られたのは、おばあさんで90歳前後のように見えた。「先生、私死ぬのですか」と周りを気にすることなく、さかんに問いかけられる。ネガティブオーラが取り囲んでいるような感じでこちらまで、暗くなってしまう。

 おとなしかった私がいろいろ愚痴を言い始めたようで、このとき、家族はもう大丈夫だと思ったようだ。

 点滴はつらい。隣のばあさんもたまらない。先生に退院をお願いしたら、許された。

 盲腸周囲膿瘍は盲腸を患った人のうち5%ぐらいがかかると聞いた。習慣になって何度も手術を繰り返えす人がいるとも聞いたが、私の場合、幸いなことに30年以上たっても再発していない。

 退院しても、完治には長い時間がかかった。